翻訳と辞書
Words near each other
・ ジョン・ドウ
・ ジョン・ドウ起訴
・ ジョン・ドエグ
・ ジョン・ドエル
・ ジョン・ドス・パソス
・ ジョン・ドッズ
・ ジョン・ドッドソン
・ ジョン・ドネルソン
・ ジョン・ドハティー
・ ジョン・ドハーティ
ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン)
・ ジョン・ドハーティ (曖昧さ回避)
・ ジョン・ドビー・ケネディ
・ ジョン・ドミニー
・ ジョン・ドライゼク
・ ジョン・ドライデン
・ ジョン・ドラマニ・マハマ
・ ジョン・ドラモンド
・ ジョン・ドラモンド (初代メルフォート伯爵)
・ ジョン・ドラモンド (陸上選手)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン) : ミニ英和和英辞書
ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン)[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン) : ウィキペディア日本語版
ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン)[ちょうおん]

ジョン・ドハーティ (John Doherty、1900年 – 1980年1月26日)は、アイルランドフィドル奏者。
== 生涯 ==
ジョン・ドハーティは1900年にドニゴール州アルダラ(Ardara)で生まれた。ブリキ職人(:en:tinsmith)や馬の仲買人(:en:Horse trading)を家業とする有名なアイリッシュ・トラヴェラーの氏族の出身である。彼の生年はいくつかの出版物で間違って1895年として記録されているが、近年になって彼の出生証明が最初にアラン・エヴァンス(Alun Evans)教授によって、その後に研究者クイヴィーン・マッケイ(Caomhin MacAoidh)によって発見されたことで正しい年が特定された。
彼の父ミッキー・”モア”・ドハーティ(Mickey 'Mor' Doherty、モアはアイルランド語で「大きい」の意味)は、彼のたくさんの兄弟姉妹と同じくフィドル奏者だった。母メアリー・マッコネル(Mary McConnell)は歌手であり、その兄弟アレック(Alec)とミッキー(Mickey)はドニゴール南部でよく知られたミュージシャンだった。ミッキーとメアリーは9人の子供をもうけ、ジョンはその末っ子だった。1970年代のインタビューで彼は、「十代の頃は納屋で練習しなければならず、"ボニー・ケイト"(Bonny Kate)チューンを弾けるようになるまでは両親の仲間の集まりでフィドルを弾かせてもらえなかった」と語っている。彼はスコットランドのフィドル奏者ジェームズ・スコット・スキナーの録音を聴き、そのスタイルを模倣した。父と同じミッキーの名で呼ばれる彼の兄(Mickey Doherty、1891年-1967年)はやはりフィドル奏者であり、マイケル・コールマンのスタイルで弾く傾向にあった。兄ミッキーはアルバム "グラヴェル・ウォーク"(The Gravel Walks、1949年)に代表される録音を残している。
1940年代後半から1970年代にかけて、彼は民俗音楽収集家たちからの脚光を浴びた。
"ザ・フローティング・ボウ"(The Floating Bow)はエヴァンス教授がアルダラ近郊のグレンコンウェル(Glenconwell)で1968年から1974年の間に行った録音を含む。 この一連の録音はおそらくドハーティのものとしては最も大規模なものであり、ドハーティのミュージシャンとしての頂点にいた時とも言われている。彼は、弓を反したりスラーをつけたりしたトリプレット、ロール、カット、モルデント(特に '人差し指' で長い音を押さえているとき)、重音奏法 (標準的な西洋音楽理論に基づき、通常は特定の和音の主音と第三音を強調している)といった、たくさんの装飾音をつけて演奏した。しばしば彼はスコットランドのバグパイプの伝統の強い影響を受けて、フィドルをオープン・チューニング(スコルダトゥーラ)にしたり、あるいは旋律の音程より下の音を小指で押さえたままにすることで、バグパイプのドローンの音色を模倣した。アレックス・モナハン(Alex Monaghan)の雑誌 "ザ・リヴィング・トラディション"(The Living Tradition) 上の話によると、チーフタンズアルタンのフィドルに強い影響を与えている。ドハーティは作家でもあり、 "ザ・フローティング・ボウ" のライナー・ノートでそのいくつかに触れることができる。
ドハーティは、必要な時には周囲からフィドルを借りられることを知っていたので、例えば "ハウス・ダンス" (house dances、ホームパーティーの1つ。ある家族が自分の家で主宰する民俗音楽パーティー)を訪れるときなど、演奏旅行にフィドルを持参しないことが時々あった。 "ザ・フローティング・ボウ"は、エヴァンス教授から借りたフィドルでの演奏である。彼は一度、エラヒタス・チャンピオンシップ(Oireachtas Championships)での演奏のためにダブリンへ旅した。
彼は1945年にドニゴール南西部にあるティーリン(:en:Teelin)への旅行中にアイルランド民俗学会(:en:Irish Folklore Commission)の手によって初めてレコーディングを行い、後の1953年にはベルファストBBC (ピーター・ケネディ(Peter Kennedy))によるレコーディングを行っている。1953年に行われたこれらのレコーディングのうち10トラックが "Traditional Dance Music of Ireland" としてリリースされた。ケネディの録音は後にフォークトラックス(Folktrax)レーベルから3巻に分けてリリースされており、1巻目は"ペドラーズ・パック" (Pedlar's Pack、1964年)である。これらの録音は、現在著作権を保有しているトピック・レコード(:en:Topic Records)から入手できる。フィドル奏者パディ・グラッキンは1965年に初めてジョンと会い、強い影響を受けている。
彼はドニゴール州のバリーシャノン(:en:Ballyshannon)にあるバリーシャノン・ロック病院(Ballyshannon Rock Hospital)で亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・ドハーティ (フォーク・ミュージシャン)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.